自作ゲーム














2012年購入の
おすすめCD


Rage [ 21 ]
僕らのRAGEが送り出す超強力なパワーメタルアルバム。ますますヘヴィに、ますますメロディアスになり、RAGEの快進撃はとどまるところを知らない……。

Riot [ Immortal Soul ]
近年の作品ではもっとも激しく印象的な作品。バンド名を冠した疾走曲RIOTはひたすら熱い。

2011年購入の
おすすめCD


Volcano [ Mythology ]
泣きのメロディが炸裂しまくる国産パワーメタル。

Wizards [ The Black Night ]
音楽性をいろいろ変えたりするブラジル産メタルバンドが、今度はドラマティック路線で復活。

Stormwarrior [ Heading Northe ]
キャッチーで暑苦しい疾走パワーメタルバンド。男度がかなり高い。

2010年購入の
おすすめCD


Secret Sphere
Archetype
イタリアンシンフォニックメロスピ。2ndに並ぶ大傑作ではないか。

Iron Fire
To the Grave
デンマークの熱血パワーメタルバンド。力押しと見せかけて細かなアレンジも効いている抜け目のないバンド。


When worlds collide

熱すぎる疾走パワーメタル。聴いてるだけで体中からいろいろな汁があふれ出す。


Leave This World

キレのいいリフと哀愁のメロディでグイグイ押す正統派ヘヴィメタル!


Strings to a Web

僕らのRAGEが送る隙のない傑作。バラエティ豊かな曲をとりそろえている。


Attero Dominatus

歴史上の戦争をテーマにした勇壮かつ悲哀に満ちたメタル。クワイアが雄々しい。


十五年ぶり、まさかの新作。ごく普通の正統派メタル。まぁ正直言っておすすめというほどでもないかな……。アルバムの存在に涙が出る一枚。

2009年の
おすすめCD



ひたすら熱く疾走するブラジリアン熱血メタル。


熱く濃く男臭い、戦士のための王道パワーメタル。聴くだけで汗がドバドバ。


僕らのRAGEのミニアルバム。表題作「Never Give Up」のためだけに買っても損はない! 友情パワーッ!!

2008年の
おすすめCD



ヘルベースビーターズ



カーヴド・イン・ストーン



オール・マイ・ライフ



ラーキング・フィア


2007年の
おすすめCD



ニュー・レリジョン


第八の罪


MKII


アゴニー~ギフト・オヴ・ライフ


タイム・トゥ・ビー・フリー
 

2006年の
おすすめCD



リヴェンジ


ザ・シャドウ・キャビネット


スピーク・オヴ・ザ・デッド


2005年の
おすすめCD



DGM [ Misplaced ]


HEED [ The Call ]


Nocturnal Rites [ Grand Illusion ]

2004年以前の
おすすめCD



Rage [ Sound Chaser ]

2008 年 4 月 15 日

Galshell以前 3

Filed under: Galshell,STG,その他 — タグ: , — 坂葉 @ 00:10:15

その1 その2 その3 その4
 Galshellのもとになったゲームについて、三回目です。
 90年代半ばを中心に時代がコロコロ前後するのでわかりにくいと思いますが、まぁそのへんは適当に読み流してください……。
 あと非常に個人的な体験をもとに語っているので、バリバリに68を使いこなしていた人からは「それは事実と違う!」ということもあるでしょう。68界の辺境でほそぼそと活動していた人間からはこう見えていたと思っていただければ幸いです。
 ネットやってたはずなのに、なんで情報に隔たりがあるんだ?と思う方もいることでしょう。当時のパソコン通信というのは、案外狭い世界だったのですよ。大手は有料だったし、多くの人が集まるところは混雑していました。居心地がいいところはアクティブ会員が20人程度でした。そのため、ネット界にも都会と田舎があったわけです。

 ゲームの話に入ります。
 他の人に外部関数を作ってもらったり、それなりに知識を学んだりしてなんとか完成した「自信を持って公開できる!(ほんとはできない)」ゲームですが、残念なことに半未公開となっています。「半未公開」ってなんじゃそら!と思った方もいよう。一応完成時には公開したんですが、そのときは時代はインターネットに移っていて、作品発表の場であるX68kの草の根ネットには人がほとんどいなかったのです。
 こう長々と書くと「やっぱりけっこうすごいゲームだったのか!?」と思う人もいるかもしれませんが、僕自身は気に入っているものの、他の人が見れば「なんじゃこりゃしょぼすぎっぞコラ!カス過ぎて笑いがこみ上げるぜー!ゲタゲタゲタゲタ!」と嘲笑の発作をおこすのではないかと思われます。X68k末期とはいえ、完成度がそれなりにあれば話題になったことでしょう。
 あのころベーマガで200号記念プログラムコンテストをやっていて、容量とかは無制限だったので送ってみました。けっこう自信あったのですがやはり他人からみれば電柱にひっかかった小便のシミにたかるゴキブリの糞にわいたバクテリア程度の価値だったようで、端にも棒にもひっかかりませんでした。そのときのノミネート作つまり第一予選通過作が同じシューティングだったというのも敗北感を強く感じさせてくれるポイントでした。
 こうなんというか、僕にとってひとつの時代が終わったといえる時期でした。コンテストに落選してショックというのではなくて、「もう68でやることはなくなった」と実感したのです。
 当時X68000というパソコンを持っていた人は、多かれ少なかれ97~99年に同じ気持ちになったことでしょう。
※ 68のHDDを漁ってみたところ、完成版は正式に公開していませんでした。ある程度できたものをとりあえずゲームの形にまとめ草の根BBSにアップし、その後ベーマガのコンテスト用に完成させたようです。
 80年代後半から90年代半ばのパソコンオタクにとって自分のパソコン機種というのは生活の軸でした。今で言うなら、車であり携帯電話でありSNSであるといった感じかな。同じパソコンと言っても、家電の一種となった現在のものとは立場がちがっていたのです。コミュニティとしてはネットゲームが近いかもしれない。その空間のみで通用するものを金と時間をかけて作り上げ、時間が許す限りその世界に入り浸るという感じです。
 68には(もちろん98やTOWNSもだろうけど)ハード(周辺機器)を強化させ、ソフトをカスタマイズするという育成要素がありました。このソフトのカスタマイズというやつは「設定変更」「便利なソフトのインストール」どころの騒ぎではなく、マニア同士は互いのパソコンを触れないくらいのものでした。操作性がまったく違うのです。ここまで愛着をもったらば、次にオタクがやるのはあれです。名前です。パソコン本体や製作したソフトに女の名前をつけるのが当たり前の時代でした。正直、キモいと思ってた。
 そしていかにもな珍名をつけられたパソコンで夜な夜なネット(インターネットではなくパソコン通信)に接続し、濃すぎて倒れそうなマニア話をするのでした。当時はセーラームーンが超絶的なブームで、どのキャラを推すかがその人の個性という感じでした。いやまぁこれは大げさだけど。
「ン」を「ソ」と言いかえたり、「萌え」という言葉が登場したり、語尾に「(オ」「(プ」「(オプ」とつけたり「(爆)」「(核爆)「(木亥火暴)」とつけたりするのが流行ってました。正直、うざいと思ってました。まぁとにかく、こういう珍妙な語を使ったりして独自の連帯感を生み出していたわけです。このあたりは今のネットとも共通するところでしょう。
 しかし今のように書籍やマスコミがネット語をとりあげるような時代じゃなかったので、この独特の空気感は「オレたちだけの世界だぜ!」という印象を強めていました。一般社会ではとても口走れないようなキモい発言を思い切りぶちまけられる、オタクだけの楽園でした。「アキバ」「メイド喫茶」「ツンデレ」「コスプレ」などの格好だけのオタク世界とは質も深さもちがうのです。先ほど「正直キモい」「正直うざい」と書きましたが、上っ面の「オタ系ブーム」よりは何倍もいいと思いますよ。本当に「これがないと生きていけない」というような病的なオタク、愛すべきオタクが集っていたのです。
 しかしこういう中にもアニメ等の一般的なオタク趣味に興味のない人がけっこういたり(僕もそうである)、アニメどころかゲームやパソコンにも興味ない人もいました。なんであんたパソコン通信なんかしてんの?という人もいたわけです。
 当時のパソコン通信ユーザーというと、一般人からすればキモオタの中のキモオタ、いわばキモエリートですよ。普通のオタクからみてもパソコン通信は一線を越えたところにありました。とにかく開始するまでの費用と苦労が並大抵のものではありませんでした。なんとか開始しても、なにをすればいいのかわからない。暗黙のルールも多く、楽しみかたがわからないのです。同人誌を作っていたコミケ系オタクよりも濃い存在だったと思います。おいそれとは「パソコン通信やってます」と言えない時代でした。
 そんな時代にパソオタでもないのにパソコン通信をやっていた人というのは、「パソコン通信」というものになにかの可能性を感じていたんでしょうね。オタクの贔屓目で見れば、先見の明があったアウトサイダーというところです。
 また90年代前半のX68kはゲームマシンとして最強のスペックをほこっていました。これは68ユーザーのほこりだった。68に勝てるゲームマシンは、ゲーム専用に開発されたアーケード機しかなかった。いや、大魔界村やストライダー飛竜、ストリートファイター2といったアーケードを代表する作品の完全移植だってできた。「出たなツインビー」などはアーケード版が出てから1年立たずして移植されています。
 ビジネス面はまるでダメだったが、そこがまたマニア心をくすぐった。つまらないビジネスパソコンではなく、アートとホビーのパソコンというわけです。今でいうMacです。
 TOWNSという強敵が現れたけど、ゲームソフトの質と量で68は勝っていました。98はもう眼中にないという感じでした。速度とかソフトの量とか凄いんだけど、オタク的に見て魅力がなかった。
 X68kは価格が30万近くする(定価では40万近かったような)こともあり「ゲームのためだけには買えないな……」という人も多く、選ばれた者のみが手にするパソコンという位置につきました。
 つまりX68kを所有するというのはすごいスポーツカーを持っているのと同じような気持ちにさせてくれるのでした。
 同人シューティング史上に燦然と輝く名作「超連射68k」は、このような時代、このような状況でうまれたのです。
 今でも「同人STGで超連射以上のものはない!」と断言してゆずらない人がいるのは、こうした背景もあるからです。もちろん内容も素晴らしいけど、それと同じくらい強固な思い出補正があるのです。
 青年期の自分にとって唯一無二の存在であるX68kで、アマチュアが作った大傑作。これを誇らずしてなにを誇るというわけです。これを否定されることは、自分の青春を否定されることだといえましょう。
 当然僕にとっても超連射68kは大きな存在で、Galshell2、夜光蛾4は僕なりのトリビュート作品でもあります。しっかり描き込まれたグラフィック・派手に合体変形するボスというのは、同人シューティングが進むべき道であり目指すべきところだと思っていたのに、現在そういう作品はほとんど見られません。それどころか2Dのゲーム自体が時代遅れになってしまいました。でも「こういうゲームもある」ということを残しておきたいためにGalshell2・夜光蛾4を作ったのです。多関節キャラや合体変形するボスが執拗に出てくるのはそのためです。そうでなければ過去作のように一枚絵のボスを登場させていましたよ。制作期間も1/3程度で済んだと思います。
 ちなみ68のシューティングゲームとしては爆裂矩形弾の方が好きです。現在webで公開されていないこともあり、知名度が低いのが残念です。
 最強のマシンX68kも、90年代の半ばをすぎたあたりから雲行きが怪しくなってきました。
 まずゲーム機としてはサターンとプレイステーションが登場してしまった。以前にも書いたように、これらのスペックは時代を5年10年と進めてしまうものでした。
 そして、僕らのX68000も新機種が出ない。93年に発売された最上位機種であるX68030は、はっきりいってユーザーみんなを落胆させるものでした。まずいちばんのウリである画像処理能力が初代X68000と同等のものだった。これはもう致命的。熱心な68信者にも「誰が買うんだこんなもん……」と思わせる破壊力を持っていました。しかも値段も高く、ハードディスクなしのモデルが約40万円ですよ。
 それならば速度はというと、同価格帯の他機種に劣っていました。なんなんだよそれは。
 68自体は最盛期でしたが、このときに多くの68ユーザーはかすかな滅びの足音を聴いたのではないでしょうか。待望の新機種がこれでは98やTOWNSに勝てない。僕は互換性など完全に無視して夢のスーパーマシンを作ってほしかったと思いました。
 対照的に、ライバルであるFM TOWNSは新機種を出しまくってました。ユーザーに対する裏切りだー!みたいな意見もありましたが、僕は内心うらやましかったです。
 問題のゲームを作っていた1998年というのは、X68030が発売されて5年たち新機種も出ず68の衰退がはっきりと目に見えていた時期でした。
 草の根BBSの書き込みは日に日に減っていき、「68命!」と言っていた人が互換機(win機)に手を出しはじめていました。
 そしてなによりwin98+DirectXで68をはるかに超えるゲームを作ることができるようになってしまったのです。単純に見て10倍、いや30倍は性能差があったといえましょう。
 だいたい普通に動くマルチタスクOSという時点で世界が違ってました。ラジオとテレビくらいの差です。その各タスクが68以上の速度で動くのですよ。もう目を疑うってレベルじゃなかった。戦争が続いてると思いジャングルに何十年もこもっていた兵士が東京にやってきたようなもんです。世界はここまで進んでいたのかと驚愕ですよ。そんなすごい夢のマシンがいくらかといえば15万円です。安いのを探せば10万円でも買えた。今のものに例えるなら、PS3の10倍の性能を持つ携帯ゲーム機が1万円で発売されるようなものです。
 はっきり言ってしまえば、win98の登場で68もTOWNSもPC98も終わったわけです。これらの機種でなにをしても意味がない。言わばバファローマンの一千万パワーを目の当たりにしたウォーズマンです。かつては正義超人トップのパワーだったのに、一夜にして十把一絡げのザコキャラです。いや、悲しいことに68では1200万パワーの光の矢となってツノを折ることさえできない。68にはこんなソフト資源があるんだぜ!こんな歴史があるんだぜ!と主張しても、まるでパロスペシャルをかけたウォーズマン。圧倒的パワーで返されてしまうわけです。win98の巻き起こしたハリケーンミキサーで、68は立ったまま死んだのです。
 ハードディスクのデータさえ移行すれば68はただのでかい箱。
 97年の時点でEX68(X68kエミュレータ)が動いていたらしいですよ。
 90年代半ばから「NewX」と呼ばれる新型X68kの噂も流れていましたが、それも意味がなくなってしまいました。
 もはや68はハード好きの電子工作マニアにしか意味がないものになっていたのです。
 win98とともに颯爽と登場したのはインターネットです。いや95のころから個人でネットを利用してる人はいました。97年にアジア~ヨーロッパを旅した時は有名大学の学生はみんなemailアドレスを持っていたし、インドにはネットカフェもありました。しかし一般への普及となるとやはりwin98以降でしょう。
 このインターネットというやつもとんでもない怪物でした。パソコン通信と比べると桁が二つくらいちがってた。
 ハードもソフトもコミュニティも、68やTOWNSは旧世紀の遺物となってしまいました。
 この2000年を境にしたコンピュータ・通信環境の激変は、今後の人類の歴史でもすごく重要なポイントとして扱われると思いますよ。しかも携帯電話の普及も同じ時期です。これはもう産業革命とかと同じレベル、いやそれ以上の出来事として認識されると思います。僕たちにとっては現在進行形の事態であり身近すぎてピンとこないでしょうが、100年後には世界史で重要な時代として扱われるでしょう。
「2000年」という数字としての大きな節目だったのも印象深いです。
 あのゲームの完成は、僕にとってもちょうどいい区切りでした。68でやることが本当に無くなったのです。
 僕は極度の面倒くさがり屋のため、扱いなれた古い環境に固執するタイプなんですが、これでまったく未練がなくなりました。
 互換機を買ったのも99年の1月だったと思います。
 さて、ここまで読んで、同人とか電脳倶楽部とかの話題が出ないのはなぜだろうと思った方もいるかもしれません。当時のX68kにとってこの2つは避けては通れない道でした。
 なぜ話題にしないかというと……まったく興味なかったのです。「避けて通れない道」と書いたくせに実は余裕で避けまくってました。
 電脳倶楽部はいいとして、なぜ同人に興味を示さなかったのかは自分でもけっこう不思議です。今振り返ってみると、自分の技術が未熟だとわかっていたため、まだ出て行く場所じゃないと思っていたような気もします。僕は「自分が一人前になるまでは、恥ずかしくて一人前の人とは話せない」と思っているところがあるので、そのせいだと思います。
 つづく
参考になったらクリック!!

コメントはまだありません »

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URL

コメントは承認制です。名前、メール、HPアドレスは空欄でも構いません。

*

Powered by WordPress