C81日記 その1
C81日記 その2
C81日記 その3
コミケ日記第二部である。
「ええっ!? コミケ日記!?」「もう二月も終盤なのに!?」
と思う方もいよう。
まさにそのとおり! 時期はずれ!
しかし! コミケの浮かれ気分がすっかり収まった今こそ、コミケ日記を公開する時期なのである!
なぜなら冷静にコミケを振り返りつつ、次のコミケに向けての計画を練るのに最適だからだ!
説得力がかなり弱い屁理屈をこねたところで、本編に移る!!
.
ここらで少し、この僕坂葉晴雄が同人シューティング関連以外の人とも付き合いがあることを見せつけておかねばなるまい。
一見友達が少なそうで実際に少ない僕ですが、他ジャンルの知り合いが全くいないわけではないのです。
コミケ会場はこういった交流をするところでもある。
【注】こういう報告記事では会話した相手の発言を取り上げるのが定番だけど、記憶違いの部分があったり真意を誤解してる部分があったりするといけないので、自分の発言とそれに関する説明という感じになっています。
それじゃ報告記事の意味がないだろ!という方もいよう。まったくである。
.
まずはポンヨリ伝説の桃野衿さんが挨拶に来てくれました。出不精な僕のところに毎回挨拶に来てくれる女神のようなお方ですよほんとに……。
実は僕が同人活動をする間接的なきっかけとなった人物でもあります。
2000年代のはじめころ僕はイラスト関係の掲示板に出入りしておりまして(イラスト投稿ができる2ch型の掲示板)、そこで桃野さんと知り合ったのでした。彼女のサイトに行ったところ「ダウンロード販売」なるものの存在を知り、これはおもしろそうだと自分もエロCG販売に挑戦してみたのです。
当時のその掲示板はおもしろい場所ではあったものの、なんというか内部で完結していました。イラストに対して激しい批判や批評が繰り広げられるものの、美大生臭い人たちの理想論がぶつかってるだけに見えたのです。もちろんそういうのも見てる分には楽しいんですが、僕としては「それだけ言うなら『受ける絵』を使い数字が出る形で勝負しようぜ!」という気持ちがありました。(ちなみに僕はそういう真面目な批評とかはせずにネタっぽい絵でワイワイやってました)
そこでダウンロード販売ですよ。まあ当時は作品のDL数は公開されない仕組みだったんですが、それでも言い合ってるだけより相当おもしろそうです。たしかランキングは出たので同時期に登録すれば売り上げの比較もできたと思います。
というわけで僕はまず実験がてら一人でCG集を売ってみました。仕組みを知らないことには勝負の提案もできないからな!
そしてDL販売を開始したところ……これがおもしろい! 販売用のイラストを描くということで、これまでよりも一枚の絵にかける本気度があがりました。また受けそうな絵やネタを試行錯誤する楽しみもありました。
こうして僕は、「みんなで売り上げ勝負!」とかはどうでもよくなり、ひとりでCG集を作るようになったのでした。今思えば、このころから僕のひとりぼっち傾向が強まったのかもしれない……。今でこそブログもtwitterもほとんど更新しないネット引きこもりですが、当時はかなり社交的だったのですよ。
まぁこんな感じで、桃野さんとはもう十年近く細く長く交流してるわけです。ここ数年の桃野さんの活躍はめざましく、商業エロゲーのシナリオライターなどもやっています。
そしてこのたびコンシューマデビューですよ。すごい。しかも先日ゲームブログ等で話題になった、「あわびくぱぁ」のシナリオを書いたらしい……。
ちなみに、ネットで有名な「なんと奇遇な!」の漫画を描いた白石明日香さんは、桃野さんのサークル仲間かつ長年の盟友でもあります。
.
そして次に、すがもさんが来てくれました。
彼と会ったのは2004年ころでした。まだかろうじて社交的だった当時の僕は、オフ会に参加しそこで知り合ったのです。
最初に会ったときは彼はまだエロ同人活動をしておらず、これからやってみたいというようなことを話していたのですが、今では立派なエロい人になったようです。すばらしい。
当時の知り合いで今でも絵を描いたりゲーム作ったりしてる人はかなり減ってしまったので、彼には今後も同人活動を続けてほしいものです。
彼は共通の知り合いであるぼんくらさんの消息を求めて僕のところに来たのですが、実は僕もぼんくらさんが何をやっているのか知らないのでした。
かつてはかなり本格的に同人活動に力を入れていたのに、ぼんくらさんはぷつりと消息を断ってしまったのです。セミプロの同人企画屋としてやっていきそうな勢いだっただけに、「まさか彼がいなくなるとは!」という感じです。僕ら三人の中では一番本気の同人戦士(ドウジンソルジャー)だったのに。
まぁなんですか、この歳になると仲間が一人また一人といなくなっていくので、寂しいのですよ。
特に力のある人がいなくなったりすると、ファンタジー漫画みたいに能力を僕に託してから去ってくれ……と思ったりします。先日も書いたけど、中途半端に能力のある人はほどほどのところで満足して去ってしまうんだよな……。
.
とまぁこのように、僕は同人STG関連以外の人とも交流しているわけですよ。たまにはこうやって人脈をアピールするのもいいだろう。
……!?
二人?
二人だけ!? と思った方もいよう。
そう二人だけである! いや、その、なんですか、最近はゲーム方面ばかりで活動してるから、二人だけというのもやむなしといったところです。むしろ二人もいるのはすごい。
.
あとコミケに参加してるといわゆる「業界の人」が挨拶しにきてくれたりするんですが、メッセサンオーが去った今、新作を出さない僕のところにくる人はいなくなってしまいました。これは寂しい。
と思っていたところ、別方面の人が来てくれたりして、これは頑張らねばなるまいと思ったのでした。
.
三時ころに撤収準備をはじめ、あとはASTRO PORTさんのところでいろいろ話してました。
ASTRO PORTさんのゲームは内容はいいのに終盤のハッタリが効いてなくて「あれ? もう終わり?」ということが多いので、もっと中二病臭い展開を入れてよと注文しました。
最終面だけの特殊状況・特殊操作なんかを入れると盛り上がりが増すと思うんですが、オーダンさんはアーケードスタイルが目標っぽいのでルールや操作が変わるのを好ましく思わないようなのです。
これは僕もすごくわかる部分ではあります。(特にスコア要素を考えると、全ステージ同じレギュレーションでプレイさせたくなる)
しかし、ゲーム性だけでなくストーリーや演出が求められる昨今のゲーム界においては、終盤に「まさにクライマックス」という盛り上がりがないと印象が薄くなってしまう。
往年のスタイルのアクションゲームが売りのサークルではあるものの、現代的な部分もうまく取り入れるともう一段パワーアップするだろうと思うのでした。
.
そして、「昨今のSTGはBGMが重視されすぎて困る」という話をしました。
これには主に二つの理由があります。
1:シューティングゲームなんだから、ゲーム部分をもっと見てほしい
2:音楽で感動させられるのは騙された気分になる
こんな感じです。
まず1番について。
最近は、「音楽を聴くためにSTGをプレイしてる」と言う人を時々見かけます。そりゃ僕だっていい曲は聴きたいです。おもしろいゲームにかっこいい曲がついているのなら、そんなにうれしいことはない。
しかし! 作者が一番力を入れたゲーム部分をオマケのように言ってはダメです! 作者はきっと泣いてますよ。
近頃はチームを組んで同人ゲームを作っているサークルも多く、楽曲のレベルも上がっています。でもゲームにおける作曲者というのは、「部外者」というイメージが強いです。企画者が作曲してるというのはあまりないのではないか。(もちろん一人で全部作ってるところもありますが)
外部の作曲者を使ったゲームで「曲を聞くためにゲームをプレイしている」なんて言ったら、企画者は「そうですよね! 最高の曲ですよね!」と言いながらも内心では泣いてますよ、きっと。
僕だって自分のゲームには最高にかっこいい曲をつけているつもりですが、それでも「ゲーム本体はオマケ!」みたいに言われたらかなりガッカリします。
以前、漫画家に対しファンが「あとがきページが楽しみで買ってる、本編はオマケ」みたいに言ったところ、エッセイ漫画の出版が中止されたという話を見ました。まさにこれですよ。(この話が本当のことかはひとまず置いといて)
STGはBGMが重要なジャンルみたいなことを言う人もいて、それじゃあフリー素材の曲使ってるゲームはダメなのかよ!と思ったりもします。まぁ個人的にはフリー素材を使うくらいならBGM無しでもいいと思ったりしますが。
そして2番について。
たとえばハリウッド映画です。
主人公の戦士が最後の戦いに挑み、決着シーンが出ないまま場面が移り変わります。
草原の中の一軒家で、ヒロインが外を眺めています。ここで!
シャラリラリ~ン、と豪勢なストリングスを伴ったBGMが!(長調の響きで)
思わず感動してしまいます。
そして丘の向こうに傷だらけの戦士登場!
ヒロインは駆け出し、戦士と抱き合ってチュー!
壮大なクラシックの演奏とともにスタッフロールへ!
これ! これが納得いかない!
本来なら、丘の向こうの人影が主人公の戦士だとはっきり確認できたときに「生きていたんだ! ヒロインと再会できたんだ!」と感動するはずなのに、牧歌的な草原+壮大なBGMの時点でジ~ンときてしまう!
もう条件反射で感動してしまう! この感動に耐えるのは難しいですよ。曲を聴いた瞬間に、この先何が来るかわからなくてもグッときてしまう。もし3秒後に戦士の惨殺死体が出るとしても、草原とBGMのせいで感動してしまうのです。
あれ? 普通は戦士の姿が見えたときに曲を流すもんじゃないの?と思う方もいよう。しかし実際には、感動の映像の前にBGMが来る場合も多いのである。誰なのか判別できないようなシルエットが見えただけで感動BGMが流れるとか。窓の外を眺めていたヒロインがふいに笑顔になったときに感動BGMが流れるとか。
映画制作のお約束とはいえ、釈然としない部分なのでした。
このように、音楽で盛り上げすぎると「自分は何に心を動かされたんだ?」と悩んでしまうことも多いのです。
このあたりをもう少し考えてみると、つまり「僕らが感動した『音楽』はその世界では流れていない」というところに行き着くような気がします。
演出とピッタリ合ったBGMだとしても、その世界では流れていないのです。
中には、その世界に存在しない楽器を使った曲もありますよ。まぁ僕のゲームなんですけど!
つまり「ここ! 感動シーンです!」とテロップが出るようなもんです。コメディやバラエティ番組のサクラの笑い声となんら変わりありません。
だから、ゲームでも映画でも音楽で感動すると騙されたような気分になる。
そして、曲を流すとしたらそのシーンを考えた人(企画者)の作った曲にしてほしいとも思うのでした。高名な作曲家が依頼に応じて作った曲よりも、企画者の作った曲のほうがそのシーンに合っているのではないかと思うわけです。
動画サイトとかで「ゲームのBGMを差し替えてみた!」「おぉ! うp主のセンス最高!」みたいなのがあったりしますが、これなんか全然ダメ。最低のセンスと言わねばならない。ようするに自分の好きな曲を無理やり当ててるだけだろ!
BGMを差し替えるという発想が出ること自体、ゲームにはBGMは必要ないことを暗に示しているのではあるまいか。
そして差し替えを行う人にとっては、自分の好きな曲ならなんでもいいわけです。
最初から「BGMの差し替え可能!」となっているものは、ゲームの主人公が好きな音楽をかけているということで納得できるかもしれない。GTAなんかはBGMはラジオ扱いで、いろんな曲を流せました。あれはゲーム内容にも合っていていいアイデアだった。
しかしこれだと肝心の「曲による演出」の意味がなくなるけど。
FPSでは激しい戦闘の後に風などの環境音が鳴り響くこともあり、これなんかはBGM以上に説得力のある演出だと思いますよ。
ただ2DSTGで環境音のみというのはやはり寂しい気もする。
場面の理解を助ける程度で主役にはならないBGMというのが、よいBGMなのかなぁと思ったりもします。
しかし! 曲を作る身からすると、かっこいい場面では最高にかっこいい曲を流したい。
まぁ、難しいところですよ。
.
こういう屁理屈をこねまわしながら(こねまわしていたのは僕だけ)、僕たちは同人シューティングサークルの打ち上げに向かうのでした。
つづく。
C81日記 その1
C81日記 その2
C81日記 その3